『フランケンシュタインの男』では「海」が印象的に描かれる。主人公の少年時代で最も美しい記憶は松葉杖の少女・綺理子と一緒に歩いた浜辺であり、大人になった彼はそれをしみじみと思い出しながら海を見つめる。綺理子にとっても浜辺は、蒸発した母親との思い出の場所でもある。海は過ぎ去った子供時代の象徴なのだ。具体的な地名は明示されていないが、私にはこれが川島の故郷、静岡の海に見えて仕方がない。『墓場から戻った少女』 で失われた記憶を取り戻すため東京から静岡への移動が描かれていたことに引きずられているのだろう。また熟れていない酸っぱい「ミカン」を少年と綺理子が海を眺めながら食べるシーンには、どこか郷愁を誘う切実さがあるとように思える。もちろんミカンは静岡の特産物だ。
自分は両親の実子ではないと思い込み、両親に愛されている弟に嫉妬する。二次性徴期の荒れた心が、凪いだ海と対比される。これまでの、どの作品よりも主人公の心理描写は微に入り細を穿つ。二〇冊近い単行本を矢継ぎ早に描きあげ、技術的にも充分なとき、久しぶりに男性を主人公に据えたことが、劇画的でハードボイルドな語り口と、作者の「私的」な語り口を引き寄せたのではないか。主人公が勤めていた会社の入ったビルディングに「ひばり」「安藤出版(※ひばり書房の社長は安藤雄二である、一三三頁参照)」と描かれているのも、どこか暗示的だ。
描き下ろし単行本で糊口を凌ぎながら東京に住む川島には、都市生活に疲れた男性が少年時代を感傷的に懐古する物語を描く充分な動機がある。それを「フランケン!フランケン!」という躁的なラストシーンへと暴力的に接続したところに、彼の画業における大きな跳躍がある。しかしこの高揚感のあるラストシーンを描きえたのは一度だけだ。本作以降は苦い読後感のものが多くなり、作者の諦念がページに滲み出はじめる。
『母さんが抱いた生首』は、ヴィジュアル面でも内容面でも、過去の作品のイメージを反復しながら、さらに先鋭化されている。川島作品では頭から落下した人物は、生き続けるか、死んでもまた物語の後半で復活する。また、突き落とした人物や、それに関わった人物は発狂するという原則がある。本作でもそれは踏襲される。画面は白黒二値化した荒々しいモノクロ写真のコラージュ【図09】や、ゴアなイメージに満ち溢れている。暴力シーンは、よりドライで即物的な演出になり、ある種のリアリズムへの傾倒がみられる。そして、どこか投げやりで、物寂しいラストが「『フランケンシュタインの男』以後」をはっきりと示している。